昭和41年01月09日 朝の御理解



 真の信心に対する初代信仰の重要過程の1ご理解

 昨夜の御祈念に、伊万里の方達がお参りして見えられました。竹内先生を先頭に、自動車二台に分乗して見えたんですけれども、御祈念が済んでからその後にちょっと正月の、おしるしをさせて頂いたんですけれども、その時に竹内先生があの、こういうようなお伺いをなさいました。親先生だいたいお道の信心をさせて頂きますと、この真ということを大変使いますと。あの、真の信心とか。
 真の神徳とかとこう言うような。ただ信心と言わずに、ただ神徳と言わずに、真の信心。真の神徳と、言うことを申しますが大体、真の信心とは、真の神徳とはどういうようなものでしょうかという、ことであった。なるほど、そういやぁもう至るところに、真という言葉が使われますですね。して見ると、信心も言わば、数ある中にも、いわゆる真の信心というのがある。神徳もやはりある。
 例えば神徳は、久留米の初代は神様の御信用じゃと、こう仰った。ですからこの氏子は、ここだけは間違いないと、こう信用して下さって下さるその御神徳と。まぁ全面的にです、この氏子はもう間違いないって言うて信用して下さる、元がやっぱあろうようにあるですね。ですから真の神徳とは、まぁそういうようなものであろう、真の信心とはそんな、どういうような事を以って真の信心と、どこでそんなら。これは、だから、私は申しました。私も分からないんですよっち。
 私もなら、けどもお互いがその真の信心をさせて頂こう、お互いが受けるなら真の神徳を受けさせて頂こう、とこう念願しておるだけであって。実際は私分かりません。けれどもと言うて、まぁお話をしたことでございます。まぁだあの久留米の初代がおりました時分です。光橋先生がおりました時分です。まぁある時に参って来てこんな事話してました。先生昨日は私の方に買い物に見えた、ある方があったんですね。
 もうその当時やっぱり、あの外車の車に乗ってです、その取り巻きっち言うでしょうかね、まぁ随行の人3、4人連れられてそして、銀座であのまだ茶碗屋を陶器をしておられる時分です。光橋先生がに見えたんです。そしてもそのまぁ当時まぁ美術品と言うような、まぁ床置きになる物とか、坪類とかといったようなものを、まぁ沢山買われたそうです。でちょっと普通、その皆がその取り巻き連中が大事にしておる具合といい、まぁその向こうの方には外車が止めてあるという事といい、ちょっと普通の人と違うごとあるから、だいたい何処の何方ですかというて、そのついてきておる人に尋ねた。
 そしたらあれが善隣会の会長だと言うことだった。善隣会というのがありますですね。今どっか福岡と久留米間のどっか、こう山の中に本部が出来ておるそうです。善隣会の会長だった。まぁ九州での新興宗教ではその当時一番勢いのあった、今はどうか知りませんけども、そこの会長もう生神様のように釈迦キリストと同じようにその、皆があれ誰でしたですかね。北野の古賀さんだ古賀さんち言う叔母さんがおりました。
 あっちがちょっと信心を、あんなに熱心にしておられましたけれど、ちょっと、おお、その善隣会の話を聞きに行った時に、ちょっと迷うたんですね。そしてからその、中村さんか誰かにその話されたち。椛目の先生は日本一ばってんか、善隣会の会長は世界一っち言うて、言うくらいにその皆が言うておった先生。方なんです。そのことを私、その昨日竹内先生にお話させて頂いたんですね。
 その時光橋先生が、言うておったこと。先生本当にそういう、あの、その、善隣会の会長という人は今の善隣会の会員の人は、生神様のように言うておるその人の事をです。実際自分がその人と、こう応対して、商いをさせてもらってから、感じたことなんです。椛目あたりでは、それこそ親先生も、本当に必要な物が必要に応じて、頂けれると仰るのに。ね、例えばそんなら、私の周囲を見回してからですたい。これだけ私が好みで買うて来たというものはないです。
 それはもう置物、例えばなら一つでも、なら座布団一枚だってそうなんです。そういう意味に信心を、だいたい真の信心とはこういうものだと、真の信心をさせてもらえりゃ、天地がその人の為にこういう風に働きなさるなぁということを、を知っておった光橋先生が、その思うたんですね。こりゃなるほど、霊徳を受けておられるだろう。人が沢山助かって行きよると事は勢いのあるだろうけれども、こりゃあの真の神徳を受けておる人とは思われんなぁと思うたとということを、話しておりました。
 ですからこれも、これも私現在の所なんですけれどもね。現在の私に真の神徳とはとか、真の信心とはと、その真という言葉を使うが、なら真の信心とはどういう信心かと言う事はです。どういうようなことかと言うことは、私も分からない。中島の上滝さんが、まだ生前中。私がもう大変怒られてから、もうぐらぐらしとるです、もう椛目には参らん。というてその、宮の陣の教会にお参りしたことがあった、一遍。
 後からの話なんです。ほれでもう椛目でもこげん、その先生がやかましゅうて、まぁ怒るって言う話をさせて頂いた。なるほどおかげ頂いたんだけれども、まぁあげんやかましゅう、言われちゃっていう事だったんでしょう。そしたら、宮の陣先生が、そのおっしゃった。そりゃ椛目じゃなかったっちゃよかですがち。真の信心さえすりゃ良いですよちいうて言わっしゃった。それけん真の信心さえすりゃ良い。さ、その真の信心とはどういうようなことか分からない。
 なら金光教の、教会の看板かけてある所さえ行けば、真の信心を教えて頂くかというと、そうとは分からない。真の神徳とはどんなもんかと言うことも分からない。私自身も分からない。そりゃもう見解の、相違もございましょう。けどお互いまぁ、光橋先生が言っておったような事は大体、ははー、そういう所で真の信心というのは、見極めていきゃいいなぁということを思うですね。なるほど世の中には、もう千里眼的な霊能を受けた人がありますよね、金光教じゃなくても。
 ね、病気が治るだけぐらいなら、なんなん様だって治る所もありますよ。けれども折角お互いが信心させて頂くのでございますから、なら真の信心をさせて頂きたい。天地の親神様を拝むことが真の信心とだけに限ってない。天地の親神様の信心をさせて頂きよりゃ真の神徳が受けられるかと言うとそうとも限らん。勿論その時、上滝さん、まぁ一遍きりだったんですけれども、それから又、そして又あの、こちらへ参って来てからその話をしておりました。真の信心さえすりゃ助かる。よかがのっち仰った。
 これもやっぱその当時でした。私があの千足に、お話に行ったことがあります。千足の何とか古賀さんでしたかね、古賀薬局でした。そういう熱心な、熱心な信者さんです。一晩お話させて頂いて、明くる朝食事の時にすんだら、あちらのご主人が、これは私共の家宝でございます、と言うてからその、御神前からこう箱を出して見せられた。白扇が入っておった。開いて見たら「真の信心」と書いてある。
 三代金光様が、にお願いをしてお書き下げを頂いたというのである。白扇に小さく小さく「真の信心」と真ん中に書いてある。だいたい真の信心と書いてあるが、真の信心とはどういうような事だろうかと思うて私は白扇を開いて、こう見せて頂いたらですね。「安心のおかげを受ける事であります」と言うて金光様のお言葉を頂いた。時に、ですから私共がです、信心をさせて頂いておって本当に、こう安心のおかげが頂けれるような信心を以って大体真の信心だと言うことは分かりますけれども。
 その、その過程においてです、なら真の信心を目指しておるが、どういうところになら、その、これさい行きゃ間違いないと思えれるような、そのまぁポイントになるようなものはです、どこかという事。皆さんどうぞ、折角信心をさせるのでございますから、皆さんそこを一つね、あの焦点にされなければいけないです。ね、真の信心と。ね、真の信心をさせてもらえや、真の神徳が受けられるのだ。神様から色々とお知らせを頂いたり、特別奇跡的なおかげを受けたから真の信心とは限らないのです。
 それで、私はまだその、手っ取り早い話しがですね、その真の信心、お道の信心をさせて頂いてから、真の信心とか、真の神徳というような、そのおかげを頂くためには、どういうようなその心がけで、私はあの、信心させて頂いたら良かろうかと、私は思う。したらですね、これも又昔の話なの、昔の昔の話なんですけれども、頂くんですね。私が北京時代のことです。
 私はだいたい丙種合格なんですからもう、昔はもう兵隊さんには縁のない者だった。丙種に合格した。所がその丙種合格でも、もう兵隊さんにならなければならないように、もういよいよ終戦が近づいて来た時代、時分なんです。これでもやっぱり私、半年兵隊さんに、の飯を食べとります。そのあの時分には点呼と言うのがありましたですね。点呼に参り点呼でその呼ばれましてから、一日鍛えられて帰って参りました。
 帰る時に、その大将になる人が言われました、皆に。ね、本当にもう非常時といやこんな非常時はない。もう超非常時なんだ。皆さんでも何時赤紙が、召集令状来るやら分からん。そのために、鍛えとかければならないとこう、まぁ、言うならまぁおどされて帰って来た。だから私共はやっぱり、だんだん自分の心の上の整理もしておきたいと。色んな事も整理、まぁ家庭のことでも、まぁ何時来ても良いように、心準備だけはしとかんならんと思いながらです。
 とにかく1日点呼できたわれとりますもんですから、もうやれやれ、今日はゆっくりお風呂どん入ってから休んで、そしていっちょ本気で、何時召集が来ても良いように、ん、準備どもしとこうと思うて帰ったんです。帰ったらもう召集令状が先に来とったんです。もうがっかりしました本当。そりゃあその召集令状が来たという事ががっかりじゃなくてですたいね、ほんの今聞いて来たばっかりでしょうが、点呼行ってから。点呼場で。そしてもう1日もそれこそ、その一生懸命きたわれてから帰って。
 そして帰ってからそのやれやれ疲れを、その取ろうかという気持ちで帰らせて頂いたら、召集令状が先に来とったんですから。もう本当に無茶苦茶でした。ね、けれどもやっぱりこれ、そのどうこう言うわけには参りませんですからね。いわゆる矢継ぎ早なんです。なるほどその事を頂くから私は思うたですね。信心はそうなんです。矢継ぎ早に立ち上がらなければならない。
 矢継ぎ早にいわば、もうその行こうとか休もうとかと言ったような気持ち、いわゆる楽はせんぞと言う本当の気にならなきゃいけんと言う事。これしこ頑張ったら後はいっちょ休ませて頂いてゆっくりと言ったような気持ちを起こさない事。ね、何時もかつもというわけには参りませんでしょうけれども、ね、非常時だ超非常時だといわれるような時にはです、もう本気でね、本気で私はもう楽はせんぞという気になる。
 そして、楽はさせて頂けと仰るのですから、神様から許されて、許される時に、そりゃ温泉行きも良かろう、お芝居見物も良かろう。けども自分がすすんで、いっちょいや、休んでから温泉なってん、お芝居見になってん行こうかというような事思いよると向こうの方から当てが外れてくる。当てが外れるとがっかりする。がっかりするような心ではおかげにはならない。いや、いわゆるおかげじゃない。これは私が言う、真の信心とか、真の神徳というものには触れられない。
 真の信心とはそういう心がけで、いわば信心を進めて行くことである。勿論真の信心とか、真の神徳とかという事はですね、私共にはもう、その厳然としてです、もう間違いのないです、信心の手本と言うのがあります。一番身近に感じておったのが三代様なんです。現四代様なんですいわゆる教祖の神様なのです。ですから教祖の神様の教えて下さったことをその間違いなく受けて行けば良いのですけれども、なかなかそこに枝が出たり葉が出たり致しましてです、真の本当の真の信心というがなかなか難しい。
 昨日、御祈念を終わりましてから、吉井の波多野さんがここでお届けをされる事なんです。先生今日はおかげを頂きましてから、今善導寺の駅、久大線を利用して見えますから、降りてきよりましたら、あの、正義さんの所の横を通ったら丁度正義さんが出かけようとしておられるところか何かだった。それで熊谷さんと二人で、そのあちらの車に便乗させて頂いてから、ここまで乗せて頂いたとこう言うわけなんです。
 おかげ頂いた。そして正義さんは筋湯の方へ、今あの道、道路を造っておりまるから、あちらにおいでよりましたと言う事であった。そりゃおかげ頂きましたなぁ。これは私は本当に、まぁ私のまぁ言うならば信じすぎかもしれませんけれども、まぁあのこの人達の信心はですね、例えば横を通っても、ここに寄らなくてもです、私は一つも不安に思わないですね。これが他の方だったら、私がそのうち、この頃あんた横通ってから、しかもあんた筋湯辺まであげな遠方へ行くとえ、寄りもせんでお届けもせんで行ったげなのっち言うてから私が言うに違いはないです。
 言わんにした所で思うに違いないです。所がこの人の信心に限ってはです、私はそれを思わないです。と言うほどに言うならば私は、まぁ信用しとるということになりますでしょう。大概な者ならまぁ寄って行きますよね。しかもご信者さん方をお二人ここまで乗せて来てあるんですから。そしてんなら先生どうぞよろしゅう今から筋湯に行きよりますけんとも言わなかったらしい。その事は波多野さん仰らなかったです。
 それでも私の心は一っつもそれで動こうとしないです。勿論聞いた以上、ここでお届けさせてもらいましたけれど。そしたら神様から、その時頂きます事がですね、あの京都の舞妓さんの後ろ姿を頂くんです。いかにもこう、だらしのない、いわばだらっとした信心のようにあるけれども、結ぶところがきちっと結んであるって言う事なんです。これは私が思いますのにです、ね、
 まぁこの人達の場合なんかはですね、もう日常生活が素晴らしいです。これはまぁある意味合いで。日参り、夜参りしとってもです、日常生活がつまらんという人が、沢山あります。あげな奴が信心してからって、人から言われるような、後指さされるような人があります。そりゃ業者の人の話を聞かせて頂いても、隣近所の人達の話を聞かせて頂いてもです。なるほど、やっぱり信心しよんなさるけんっと、言ったような生活をやはりしておるということです。
 そして有る意味合いにおいては、通るところ通っとるということです。ね、例えば表行もする。日参り、お参りも本気でさせて頂いておるという、そして例えばどう言う事を、まぁ知っておるかというとです、本当に信心させて頂いてあの、生活させて頂いくならですね、本当に生きた神様を頂いてです、真の神徳を受けなければ人間の幸せは頂けない事を知っておるという事です。
 そして、椛目の信心を真の信心だと思い込んでおることです。例えば日常生活の中に、あぁせんならん、こうせんならんと、そんならここまで毎日、まぁ筋湯通いをしております。ね、山並みハイウエーのあちらです。筋湯から山並みハイウエーの間を今道路をやってるんです。ですから、何時もその神様を身近に頂いておるますからです、ちょっとおかしいぞっと言う時には、そこんところを修正したり、訂正しなければ前には進まないです。というくらいに神様を身近に頂いておるとまぁ、私は信じておるです。
 あの人のことをです。ですから、よしここば横ば通って言わなかったからというて、私はどうした人じゃろうかとは思わないんです。けども以外な人だったらそげな事でおかげ落さにゃよかがな、という風に思うでしょう。私が思うのに、神様から信用される前に、まず私から信用されなければ椛目の人は駄目だと私は思うですね。夕べの御理解の中にもございましたが。信心する者の真の神徳を知らぬことと。
 もちろんその、例えば、正義さん当たりの、信心が立派という、立派ではあるけれども、あれでなら完璧って、言う事ではありませんね、如何にもだから私、夕べその人達に、申しました事ですけれども、ならそういう信心をです、ならだらっとしとるところだけを、習うたら大変だと私は思う。きちっと結んであるところを見らんでおいてから、だらっとしとるところ、あや、ははぁ、あげな風でっちゃ、おかげを頂かれるというようなことを思うたら間違いだと。
 今こそ、例えば、真の神徳を受けるための、信心の修行本気でしなければいけない。夕べ青年部会でしたが、その青年会の麻生さんという方が、昨日の朝お届けしておりますのに、正月の初夢にです、ね、信心のない者が見たら、濁っておるち言う、この水が。ところが私が見ると、それが綺麗にすんでおるとこう。私というのは麻生さんなんです。そういうお知らせだった。
 そして、そこでその濁っておるところで、探り探り魚をとっておると言うのが、信心の薄い者、信心のない者だとこう。私が見るとその水が綺麗にすんでおる。そして中にはもう、見事な鯉が、そん沢山泳いでおったとこういうのである。これは真の信心とは、だいたいおぼろげながら分かって来た。真の神徳とはどういうようなものかが段々、はっきり分かって来た。これは水がすんで来た事なんです。
 ですから、今年こそその、真の信心させてもらい、真の神徳を、鯉はご神徳と仰るですから、ご神徳を頂かせて頂くための信心をさせてもらわなければならない、というような事であった。今年こそ、その真の信心をさせてもらう。真の神徳を受けるのには、一番良いチャンスである。非常時も非常時もう超、椛目の場合非常時であろうと。私が点呼、そして帰って来た。したらもう赤紙が待っておった。ね、
 そんな例えば一服しようなどと言うのじゃなくてですね、それがもう帰ってもう待っておっても、それを、「おおー」、と答えて立てれるだけの信心なんです。そのくらいな、私は覚悟がなかなければ、なかなか真の信心をさせて頂いておる者とは言えないだろう。ね、そういう信心からしか、ね、私が真の神徳というものがです、なら私でも、ならこうだとは言い切れない。その竹内先生に私は申しましたように。
 私もだいたい分かってないんですよ。けども目指すところはやはり真の信心であり、真の神徳なのである。それには、例えば今、今申しますようにです、ただ召集令状が来た時にそれに答えて立つというだけではなくてです、ね、ちょうどその時の気持を皆さん想像してごらんなさいませ。私が点呼で1日きたわれて帰って来て、はー成るほどむこうで言われたように、何時召集令状が来るか分からん。普通まだ15日20で来るとは思いませんもんですからね、今聞いて来たばっかりなんですから。
 だからその中にはいっちょ、身の回りの整理でもさせてもろうて、覚悟だけは出来てだいたい帰って来たつもりだったけれど、実際帰って来た時には、もう赤紙の方が先に来ておったと言う事。もうその時のがっかりのしようと言うたら、なかったって私本当。それは兵隊に行かんならんという事ががっかりじゃなくてですたいね、もうこげんならだまし討ちのごたる事があろうかと私は思うたんです。
 ですからお互いがその、例えばそれがだまし討ちのような事であろうとです、矢継ぎ早であろうとです、それを一の太刀は見事に受け止めたけれども、二の太刀でよろよろ、三の太刀で受けそこのうたっと言ったようなことではないだけのです、私は覚悟を以って信心に打ち向かうて行かなければいけないと言う事。そして私共が、その正義さんのそれではありませんですけれども、日々の生活の中にです。
 本当に信心を生かして行かなければならん。そこには活き活きした神様の働きが必ず頂けれる。間違うて行ったら神様の方が、間違うておるぞと言うてです、教えてくださるほどに間違いない神様なのである。ですから、私その事をで、その舞妓さんの後ろ姿え見せて頂いた時にです、ははぁこれでもまぁだ、いわば半玉だと。ね、舞妓さんのことを半玉と申します。ですから、芸子さんになりますと一本とこういうわけですね。
 一本になったとこう言う。だから一本になるまでにはです、だからこの人達が段々信心をさせて頂いて、あぁいう信心からです、本当に、本当の帯びが結び上げられてです、いうなら日参り、夜参りでも、あれでさせて頂かなければおられないようになった時がです、本当なものだろうと私は思うのです。ですから、お互いそういう信心の一つの基礎と言うものをですね造るという事は、日常生活の上にどれほど、その真の信心というか、その教えをです活かして行く、生活からしか生まれてこないと言う事。
 ただ拝む時に色々お知らせを頂いたとか、毎日お参りをしよるから真の信心が頂けるだろうと思うたら、こりゃ間違いだと言う事。日常生活の上に本気で私は教えを行じて行く、教えに取り組んで行くという信心。これは私でも、なら私の信心が真の信心とまだ言い切れない。けども目指すところが真の信心であると。そして、なら私の信心がです、真の信心へ向かって進んでおるかという事を確かめるためにです。
 どう矢継ぎ早に、例えば神様が無理を、例えば仰ってもです、それに立って受けられるだけの信心。させて頂くためにです本気で一つ楽はせんぞと。麻生さんが頂いておる、それではありませんけれども、本当に今年こそやはり、超、椛目としては非常時であろうとこう思うのです。心ゆっくりと言ったような、気持ちは起こされないと私は思うんです。ね、言うならば、真の信心を、真の神徳をさせて頂く、いっぱい。
 いわば機会に恵まれたという事になるのです。お互いが願うところ、ね、目指すところ。真の信心であり、真の神徳であるとするならばです、こういう機会を逃さずに、本気で真の信心をさせて頂かなければならん。ね、ただ信心、ただ神徳というのではなくて、それに私は真が付いておる。ね、なら真のもの。真の信心とは、神徳とはと言うものを、目指してお互い信心をさせて頂かねばならんと思います。
 昨日竹内先生に、そういうような質問を受けてです、竹内先生はそれで、はぁそれで分かりました。と言うておられましたけれども、実をいうたら私自身がまだ分かっていないのです。まぁだその真の信心に対するところの頂き方が、どうこれから変わって行くか分かりませんけれどもです、変わって行くに違いありません。変わって行かなければ嘘です。けれどもその、その道すがらがです。
 いわゆる真の信心をという事は、いわば天地の働きというものをです、バックに、天地の働きを、そのどこどこの会長さんじゃないですけれども、自分の欲しい物をです、あっちこっちに買い集めにでもいかんでよいだけのです、私はおかげを頂かせてもらわにゃ、ここのところに焦点を置いて進んで愈々行かなければいけないな、と言ったようなことを感じております。どうぞ、真の信心を皆さん目指してからの信心をお願いいたします。
   どうぞ。